たくさんの著作があり,テレビ出演もたびたび。そんな著名なY先生の目の前で板書したことがあります。

生物多様性の保全や子どもたちの自然体験がテーマの委員会。環境分野で有名な大学の先生や,長年教育活動を行ってきた方など,10名弱の委員がいらっしゃいました。Y先生はその座長でした。
私は福岡から日帰りで東京へ,模造紙を書くためだけの出張です。
そんな機会をいただき,お声がけくださった方にはとても感謝しています。


委員会は,まず自然体験の価値や意義を整理することから始まることになっていました。
私は板書をはじめる前「山や海,公園などいろんなフィールドの話が出るだろう」「学校教育,放課後の遊び,食を通じた体験など場面がいろいろ出るだろう」など,いろんな切り口の意見が多種多様に出てくるだろうから,とにかく自由になんでも書き留めていくつもりでした。
模造紙を2枚ずつ重ねながら8面。計16枚まで書ける準備をして臨みました。


意見交換が始まった冒頭のY先生の発言は予想外でした。
私の意訳ですが,自然体験は言葉にすることができないから価値がある。実際に体験してみないとわからないから体験してもらう必要がある。それを言葉で整理していくことには矛盾があるのでは?ということだったと思います。
まさにその時,自然体験の価値や意義を言葉で書き留めようとしていた私には,これからやることをひっくり返されたようにも思えました。


そんな時,グラフィッカはどうするかというと,ただその通りに書く。
「矛盾がありますね」「これで伝えられるのかな?」「わかった気になるのも…」と書いていきました。
その後,委員会は素晴らしいファシリテータの進行もあり,それぞれの委員の経験やエピソードを重ねながら,実際の体験につながる取り組みを行っていく方向で話は進んでいきました。


グラフィッカとしての教訓めいたことを一つ挙げるとすれば「ただ,話し合いに付いていく」ということかもしれません。
発言が事前に想定したレールや枠組みをはずれたと感じられても,自分がそう思い込んでるだけかもしれません。勝手なフィルタリングをして発言を取捨選択したり,無理に準備した枠の中に収めようとすると,途端に話し合いは嘘っぽくなります。
ファシリテーショングラフィックは,発言の意味を汲み取りながら,なるべくその人の言葉を生かして書いて,書いたものを本人が見て納得しているか確認する,の繰り返しです。


委員会が終わった後,Y先生と雑談する時間がありました。
「自然体験の価値と一緒で,会議の発言も全部は言葉にできない。だから人前で書くのは難しい。」みたいなことを言いました。そうするとY先生から「だから,ああいう書き方してるんでしょ?」と。


その日の板書も「マンダラ型」で,いつもどおり文章はあっちこっちに散らかり,斜めになったり縦になったり,グニャグニャした線で結んだりしていました。
それを見て「だから,ああいう書き方してるんでしょ?」と言っていただいたのは,見透かされたようで恥ずかしいような,うれしいような。
自然相手と同じで,会議でも発言の真意を理解したり書いたりすることはできない。だから「まとめすぎない」「解釈の余地を残す」ような書き方をしてるんでしょ,と良いように受けとめています。いや,もう数年経つので思い出補正してるだけかもですが(笑)。


ここからもう一つ教訓めいたことを挙げるとすれば「言葉になってない部分に大事なことがある,と思いながら書く」でしょうか。精神論っぽくてわかりにくいですけれど,大切じゃないかなと思います。

後日,Y先生と蕎麦をいただきながらした話はまた改めて。